涙の出る夜は死にたくなる夜
突然、突発的に、訳もなく胸の奥のちょうど心臓のあたり…というか心臓が締め付けられて、たぶんハートブレイク症候群とかいうやつになって、涙がポロポロこぼれて、苦しくなって、声を出そうとすると情けない声がでて…
「あぁ、これはもうダメだ」
「精神的に完全に不安定なのだ」
と、頭の隅でどこか冷静に己を分析する。
そんな時には、決まって瞬時に脳内を「死にたい」「明日なんて来なければいい」「自分が消えても世界は困らない」「ならば、今死んだところでなんの問題もない」という、なんともまぁ吐き気を催しそうなほどネガティヴな思考が駆け巡る。
ネットで「死にたい」と検索すればいくらでもでてくる死にたいと思っている人々。
私もまた、その中の1人なのだ。
その中の1人だなんて。
まるで私も仲間に入れて!と言っている子どものようだが、そうではない。
単純に、死にたいと思っている人がたくさんいて、理由も境遇も、人生も年齢も、何もかもがバラバラなその人たちのうちに自分も少なからず含まれていらだろう。という話。
加えて、死にたいで検索をかけるとでてくるのが
うつ病かもしれません。の文字。
もしかしたら、私もそうかもしれない。
しかし、私は私自身がそうである可能性を断固として認めない。
だからこそ、余計に辛く、苦しいのかもしれない。
それで、今こうして両の目から涙を流しているのかもしれない。どうしたって、涙は流れ、心臓はキリキリと締め上げられて、身体と精神は悲鳴をあげるのだ。
源平さんは、自分で自分を追い詰めてしまうタイプですよね?と、
とある人から言われたことがある。
全く、その通りである。し、私は私を追い詰めて追い詰めて、崖から突き落とし、そして死ぬのだ。
like this...
他でもない己自身に崖から突き落とされ、死ぬ間際、私はおそらく笑っているのだ。気持ち悪い笑みを浮かべて……。
死にたいは生きたいの表れだとか、死にたいと言ってるうちは死なないだとか……。何をどうしたらそんなことを堂々と言えるのか。
結局、当事者になってみなければ…
当事者になってみて、その景色を見なければ、わからないことばかりなのかもしれない。輝く世界も、色がなくなった世界も、全て存在していて、それは全てちゃんとあなたの目の前にあるのだと。
しかし、それを認知する力が残されていないのだ。
つまり、つまり、疲れているのだ。
だから今は好きなことですら「楽しい」と、思えない。
しかしとりあえず、うっかりしてると死んでしまいそうになる現状。これをどうにかしなければならない。
ふむ。そうだ、例えば………
約束でもすれば死なないだろうか?
そう例えば、彼女との約束。
一週間後、デートの約束をする。
デートと言っても、帰りに待ち合わせてお茶をして帰る程度の…。側から見たら単なる先輩後輩の女子会にも満たないお茶会。(先輩後輩と言っても、学校のではない。年齢がほんの少し離れているという意味で)
でも、私たちにとってはちゃんとデートなのだ。
そうだ。デートまでは生きていよう。
そうやって、私は今日も、この記事を書いている間にも、うっかり生きているようだ。しかしそれは、うっかり死んでしまうより、ずっといいのだろう。
今日もうっかり生きていよう。
うっかりうっかり、死に損なって生きていよう。
いつか本当に死んでしまうその瞬間まで。
死ぬタイミングを逃しに逃して、生きていよう。